ハートが映写機(鏡)になる時
やっほーー☆ こうのみちこよーーーん♪
卑屈ッキーとやり取りしてて、
その卑屈さを思い煩っているところから外れて、
本来のエゴ(男性性)というところを感じたら、
パーーーンと鏡が割れた。
「あ。ハートが水晶みたいでここが中心で世界に映されている」
ハッキリとわかった感覚。
『鏡の法則』の鏡は、自分のハートだったんだ。
それはもう。光のプリズム。
世界がフォログラムなのも一瞬で理解できた。
つたなくなるだろうけど、伝えたいなーー
まず、鏡の法則の鏡、外側にない。
他人は自分を写す鏡だと言うと、「人は鏡だよ」ってなるけど、
そうではない。
人をみて、「ステキだな。素晴らしいな。」と、そう思っていること。
「思っている」それが自分だよ。ってことね。
それをステキと思う心がある。という事実を知る。
それは久しく、自分にもその要素がある。ということになるのだが。
これ、理解するの、本当に難しい。
視点と軸がぶれるから。
ただ、追いかけてきてよかったーーー♡
で、ハートに映写機(鏡)があるってなると、
こうなる。
ソースからの情報も、自我と本能の流れも、ハートの水晶玉に映されている。
注目すべきは、自我(☆)で、この自我の方向がハートを向いていることである。
そうなると、写し出される世界に「自分」はいない。
映し出される世界に自分を置いて、誰かと比べたりとか、
誰かに○○思われるとか、そういうことを感じたり思ったりしない。
だって、自我がハートに映ったそれが、そのまま世界だから。
全て「自分が」そう思った。そう思っている。という世界。
まず、人のせいにはできないね。
そう扱っているのは、自分自身だということ。
散々、エゴとか、男性性・女性性で自分をみてきたそれ、
「自分が自分のことをそう評価している」
これが世界だと、腑に落ちるね。
でね。
誰かのことを責めたりとか、
誰かと自分を比べたりとかね。
そういう状況は、この図の感じ。
観て欲しいのは、自我(☆)も映写機(鏡)になっているということ。
だから、世界に「自分が」いる。
自我が世界を映していても、ハートの映写機が機能していないか?というと、
それは機能されているけれど、
それすらも網羅してしまうくらい大きな映写機を自我が持っている。
さらに、自我の方向が外に向いていると、ソースの情報と自我が交わらない。
これが、ソースからの情報を受けとっても、やらされている感じとか、
自分事として捉えられず、特別視してしまうとか、そういう感覚になる理由かな。と。
ちなみに、私は離婚の際、
魂の声→よっしゃ!ばんざーーーい!これで自由になれる!!!
自我の声→私の何がいけなかったの。。。別れるなんて言わないで(号泣)
ソース→それらをフーンと見ている。
という分離的感覚を体験したけど、
それも、このエネルギーの分断された感じだと、納得できる。
自我(エゴ)の方向が、かなりのキーワード。
外側を向いている。というか、
世界が自分をどう思っているか?なんて、
自分が写している世界からどう思われているか?と意識することだからさ。
無意味というか、、、、
そりゃ、自分がなくなるのも無理はない。
なるほど、ハートが中心でないなら、どこが中心だろうか?と思っていたのだが、
中心がハートにないと、とっ散らかるんだね。
色んなところが分断されている。
今までの分離感がここにあるのかと。そう思った。
ハートが中心になると、面白いくらいにエネルギーが回るのがわかる。
世界への視点もぶれにくい。
他人が自分を○○思うなんて、もうマジで全部自分で自分のことそう思っているからね。
そう思っている自分に氣づけば、それで終わりよ。
ま、そこで絶望するのもありね。
その絶望は新しい自分への切符だから。
他人が私をどう思うことも、他人様の自由ですから。
それを自分で思うことが、もうね。。。
もういいなーーーー
卑屈ッキーと共に、さようならするわ。
ただ、卑屈ッキー有りきで、氣づいたことだから。
やっぱり、全てが素晴らしい。
自我が正常に機能し始めている。
ふーーー
<p
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かなりコアな内容なので、
私が好きでないときついでしょうが 笑
@rgk3016v
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