この世界に万物に通用する正しさはない。
やっほーー☆ こうのみちこです。
「なにが正解か?」
物心ついた時から、これが私の行動と選択の視点だった。
それを妹に話したら、
「えぇーーー それはキツイよーーー
だって、正解なんてないじゃん。」と、あっけなく言われた。
妹と、幼かった時のこういう話をするのがおもしろい。
全然視点が違うから。
同じ常識がある家で育っても、こうも違うのか~と思う。
妹はハッキリと言う。
「お姉ちゃん大変だな。と思っていた」と。
こうも言う。
「それでも優等生だったあーたを凄いと思っていた」と。
で、私のその心は。で。
・両親に怒られないために。
・おじいちゃんに好かれるために。
純粋に「何かしたい!!」と、思っても、
それを思うか、思わないかで、「それが褒められることか」という、
自分の中でデータ収集が行われていたように思う。
いつでも姑息に、凄いとか、さすがとか、喜ばれるだろうとか、
そういうことを「察して」いた。
記憶のある限り、そういう感じだったから、
かなり早い段階で、
「この人たちの要望と期待に答えないと自分には価値がない」と、思い込んだのだろう。
もちろん、そこには純粋な「喜んで欲しい」という思いがあったと思う。
そして、両親にしてもそう育てることが私の為という思いがあったのだろう。
あまりにも、「正解さがし」が長かった。
これが、「自分がなくなる」という錯覚と、誰かの為にが苦痛の根底だろう。
外に正解を探している以上、自分のことが置き去りになるのは当然だ。
そして、
それをしている、その心が、
「外の正解をやらないと、自分には価値がない(愛されない)」と言う、
自己卑下、自己承認の低さを生む。
何をしてもしなくても、私はあいされている。
それが本当のことだ。
・誰かに自分が嫌われないように。
・誰かに自分が責められないように。
・誰かに自分が褒められるように。
・誰かに自分が好かれるように。
・誰かに自分が怒られないように。 みたいにね。
こういう前置きをね、心にもっていると、対等な関係性は築きにくい。
もちろん。
その心こそ、あなたの心なのだから。
それをしている理由こそ、もっとも自分自身が見たくないものだろう。
これって、自分で自分のことディスってるからね。
自己否定しているし、自己評価も低すぎる。
もし、それで安心しているのなら。
それはもう、相当傷ついている。
全ての人に共通の正しさなんて ない。
あるわけがない。
それを探している以上、自己愛に目覚めるなんてこと ない。
だから、なんだよ。
すでに傷ついて、こじらせているから。
だから、周りを氣にせずに「自分の為に」をやる。
自分を、自分の感覚を呼び覚ますために。
自分のことを自分で誇らしく思うために。
はっきり言って、
この前置き(誰かに自分が嫌われないように。などの)が心になかったら、
「自分の為に」をやりきる必要はない。
やらなくてもいい。
ストレートに、「誰かのために」が行動できるから。
すでにしているから。
自分の段階をよく観察して、自分にフィットする情報を鵜呑みにしてね。
散々、こじらせて、
「自分の為に」をまぁーーーーもーーーー、
感情的にも、行動的にも、やりきった私は。
自然に内側から湧いてくる形で、「誰かの為に」自分を活かしたい。と。
そう思うようになった。
やっちまったなーーーーーーー!!!と、思っているよ。
正直。
だけど、これをやらなかったら、私は一生拗らせたまま生きていたと思う。
そうならなくて、よかった。
私は、ただこうして生きているだけで愛されてもいるし、認められているけれど。
誰かの喜ぶ顔にワクワクするから。
こじらせていても、大丈夫だよ。って、言い続けていきたいな。
ま。こじらせて、暴れまくったおかげで、たーーーーくさんわかったことあるしね♡
それが誰かの役にたてたらな。
誰かの為に行動することが、自分の歓びになる。って、
こういうことかもな~♪と、ワクワクするよ~
sensitivitytolove315.hatenablog.com
タイムリーな氣づきや
ハートの領域を緩める・ひらく・動かすワークをしているよ。
ワクワクについてや、自我や魂の違いとか、
質問があったらこちらからどうぞ。
かなりコアな内容なので、
私が好きでないときついでしょうが 笑
@rgk3016v