郷に入っては。。。
やっほーー☆ こうのみちこです。
私、現実ドラゴンクエストで、
「えっ!そこ入らないといけないの?!」みたいな、
現実の常識ではダメだろうと、思われるところに、
いざなわれることがあった。
(藪の中を鎌をもって入ったこともある。。。)
一方で、
「入ってはいけません。」と、書いてある、
もしくは、そう聞いた場所に、
「入りました」と言う人を目の前にした時に、
いきなりスイッチが入っちゃって、
関西弁で物凄い勢いで怒ったこともある。
(とはいえ、記憶がほとんどないから、一緒にいた人がそう言っていた。)
この矛盾。
私は、私の事を、
「オメーーーーは何様なんだよっ!」と、
ツッコミまくっていた。
(7年くらい前の話)
そういうことがあったから、
私は基本、
その地域の人が大切にしていることを大切にするようにした。
(特に島に居た時には)
その上で、
ちいさな私ごときでも、お役にたてることがあるのなら。と、
もう、相当のサインがきたものだけ、
身体が動くまま、やらせていただいた。
その土地の風習あっての、
その土地のエネルギーがあるし、
土地のエネルギーは、人に影響している。
また、逆もしかり。
よそ者の私が、
そこに生まれ、育った人の考えをムシして、
何か新しいことをするなんて、とても怖くてできなかった。
その土着の文化・風習に惹かれて、そこに居たこともあるし、
その仕組みというか、空気というか、
わからないことを教えてもらっている。って感覚もあったし。
とはいえ、
人間的な感覚と、
土地・神様的な感覚の違いは、
お互いに強く影響を与えあっていたとしても、
差がある、矛盾がある、ことも知った。
時は経ち。
神社やパワースポットに足を運ぶことが、
特別なことではなくなってきている。
自分が神様であること。や、
自分とそちら側の交信に、そういう場所に行く方も増えてきているな。と、
それは嬉しく思う。
でも、なんか「ん???」と、思う感覚もあって。
それがなんなのか、わからなかったんだけど、
友人のFBの投稿で、わかった。
敬う心。
神社やパワースポットにくる方は、
それなりに自分自身のこともごらんになられていて、
「ありのままの自分」
「そのままの自分」であることをゆるされているだろう。
それはそれで、とってもいいこと。
だけど、その場所が、
静寂の中、自分自身をみつめるように、と、整えられた場所なら。
それに倣った方がいいだろう。
注意されたり、
そこに注意書きがあったりするのなら、
それはそれに従った方がいいよね。
そういう場所として、そこを守っている人がいるのだから。
それは、あなたではない。
なんらかの神事に参加する場合もそうだよね。
主催する人が、
みえない世界から受け取っていることもあるだろうから、
やっぱり、そこに従った方がいいように思う。
それを、
「私は思ったことを表現するのが、ありのままだから。」と、
自由を貫くのは、品がない。
それを貫くのなら、
神事に参加するのではなく、自分で勝手にくればいいし、
そういう場所ではないところで、やればいい。
何もそこでやらなくても。なの。
もちろん、
例えそういう場所で注意されようとも、
あなたは素晴らしいし、
あなたの存在は、そのままでいい。
それと、これは、別。なんだよ。
そして、
それって、心の在り方だな。と。
その場に対する敬意。
その場にいつもいる、お世話している人への敬意。
その場を長い時間信仰している人への敬意。
その場所が、今、
あなたが行きたい、と思うような場所なのは、
そこにいる人の影響でもあるのだから。
それって、とっても有難いこと。
あくまでも、
訪問者である。私たちはそれを忘れたくないな。と。
その上で。
楽しむことができたらいいな。と思う。
あっ。
でもそこに上下はないからね。
これは尊重し合いたいし、
気持ちのいいやりとりがしたい。という話。
で、
そういうことが起ったとして、
その解釈は、その人の自由だから。
そうやって、自分を表現することで、
その世界に風穴をあけた!と、いうのなら、それはそれでいいのさ。
帰省でお世話になっている神社にご挨拶してきたの。
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