「本当は」を知っているから、ムカつきもする。
ごきげんよう。 こうのみちこです。
本当は、
自分で自分の美しさを知っているのに、
それを
自分自身で埋もれさせている。
sensitivitytolove315.hatenablog.com
これね。
私自身のことでもあります。
ひだまり堂の由美さんの対話セッションで、
「それに対して悲しいっていうのもあるけれど、
なんでお前らにそんなこと言われなきゃなんないんだよ!
っていう、怒りもあるね」
と、言われて、
私のパターンとして、
悲しみとか、刹那さとか、苦しみとか、ね、
そういう居たたまれなさを、
「怒り」をガソリンにして、
なかったことにする。。。というか、
超えていくというか。。。
そういう傾向があって、
だから、
悲しみと怒りと刹那さと怒りと。。。みたいに、
ミルフィーユ状になっている。
と、お話をしたのです。
なんだけど。
これ、「これまでの」パターンの話で。
「今」じゃないの。
また、因果あり。からみた話なのね。
(↑ここホントに飽きてる)
じゃあ、
「今」この話ででてきた怒りって、
なんじゃらほい?と、
静かに見た時に、
あ。
本当の本当は、
心の奥底では、
私は自分で自分のことを美しいと認めている。
だから、
うっせ!と怒りがわくし、
それがわからないお前に言われたくない。
と、なるんだな。と。
表面的なことじゃなくて、
ずっと奥の奥に、
私が自分で認めていることがある。ってこと。
そこへの尊厳からの怒り。
この奥の、
美しさの肯定にいきつくまでに、
「自分はこういう人間だ」という、
自分に対する認識、ジャッチがこびりついているし、
周りの目とか、常識とか、枠組みとか、
固定概念とか、習慣とか、見てきたものとか、
「自分自身ではない」ものもこびりついている。
いわば、
そこに自分を合わせてきたからこその、
怒りw
本来の自分って、
こんなにも自分を肯定していて、
こんなにも自分が無限であることを知っている。
その無限のものを、
枠にはめるゲームをして、
その枠を外すゲームもして、
っていうか、
そもそも枠なんてなかったんじゃね?っていうゲームね。
笑ってしまうw
そこを的に定めれば、
そういうゲームはいくらでもできるんだけど。
このど真ん中の、
私は美しい。という、
光を、
どう、輝かせていこうか。と。
そう思う。
身体との対話をするなら。
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これが妙に刺さるのよ~♡
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